2015年5月13日

久し振りに会った友人に理屈っぽいと指摘された話

『何だかしばらく会わない間にえらく理屈っぽくなったよね。』

と、20年振りに再会した、ある企業の経営幹部である友人は言った。

私は、お互い社会的にも「えらく」なったよねと言う意味だと誤解して同意しかけたものの、言葉の意味をもう一度咀嚼(そしゃく)した後、自分の勘違いに気付いて改めて聞き返した。

『そんなに理屈っぽいかな?』

そう聞き返しながらも、よくよく考えてみたら、そのあたりの私の性格はその友人と同級生だった頃よりも前から変わってない気がするし、そもそも私にしてみればその友人も十分「理屈っぽい」ように思える。

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『何でそうなるんだろう?』
『何のためにやらなきゃならないんだろう?』

周りの友人は何の疑問も持たずにやっていることが、私には当たり前のように出来ない。だからやらない。

過去に私のそんな性格を見て、頑固だという人もいれば、単なる天邪鬼(あまのじゃく)だという人もいた。そして、私の知る限りそのような性格の大人のことを「理屈っぽい」と捉えることは多いようだ。

ただ、自分の中にそのような頑固さを持つことは、虚勢を張っている場合は別として、自分のやっていることに多少は自信があることに他ならない。
そう言った意味では、昔の私は自分のやっていることに今ほど自信を持っていたわけではないので、だからこそ時々ブレて一貫性がなくなり、結果として周りにもあまり気付かれなかったのかもしれない。

また、ヒトは歳を重ねるごとに自分を知り、自分の可能性や限界が見えた時、自身の行動をある程度限定していくようになる。言い換えると、ヒトは残された時間が限られている事を知ると、自ずとその先の自分を思い描き、それに沿っていない行動をとらなくなる。つまり、ヒトが歳をとるほど頑固で「理屈っぽく」なるのは、既に自分の限界が見えているということの表れだとも言える。


しかし『四十にして惑わず』とはよく言ったものだ。確かに私自身も最近は判断に迷うことが殆どなくなってきた。
だからと言って自分の事を「理屈っぽい」と言われると、何やらネガティブでモヤっとした感情がつきまとい、内心穏やかではなくなる。『あなたは素直じゃないね』と面と向かって言われると逆に素直に認められなくなるというロジックだ。

とは言え、感情をストレートに表現することは、円滑なコミュニケーションを図る上では基本中の基本ではないか。

そう思ってふと自分の周りを見てみると、同年代以上の友人知人でも「理屈っぽい」性格の人とそうでもない人がいることがわかる。そしてその違いがどんなところに現れるのかと言えば、私は「イメージング」の差ではないかと思う。

なぜ?どうして?をとことん追求する人は、当然、先の状況を想定するために理屈を求める。全ての結果には原因や根拠がある筈だから、どんなことにもそれを先に求めるのだ。

その一方で「イメージング」が弱い人は、目の前に起こることに一喜一憂する。もし仮に失敗した時は、立ち直りが早い人は良いが、引きずりやすい人は長く尾を引く。原因や根拠は二の次だ。

そして最後が、7割方イメージしながらも、基本的には「目の前に起こる全てのことは必然である」という考え方だ。必然なのだから小さな失敗は気にせず、結果を全体で見ることになる。

原因があって結果が生まれるのは当たり前だが、100%ということはあり得ないし、そもそも大局で判断するので、細かな部分は理屈など気にしない。そうすれば、一番多くの事に目が行き届くし、結果として一番広くリスクも回避できる。

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『何か「理屈っぽい」人と話すと窮屈(きゅうくつ)なんだよね。』

件の友人はそう言って再び口を開いた。私はここで言い返すのは得策でない気がしたので、次の言葉を待った。

『あなたとは話し辛いって、うちの家族がオレに言うんだよね。』

と、そこで私が思わず吹き出すのを見ると、友人も笑った。

『でね、確かにその時オレがムキになって理屈をこねくり回してたことって、言われてみると確かに取るに足らないことだったわけ。だからさ、お互い気を付けたいよね。』

そう言って友人はその話を締めくくった。

毎日めまぐるしく変化していると、時に物事の重要度が判断し辛いこともあるが、自分としても少し肩の力を抜くところは抜いて、もう少しユルい自分を心掛けようと気付かされた日だった。


その他、一説によるとこのブログが「理屈っぽい」という指摘もあるが、それはまた別の機会にしたい。

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