2015年6月17日

【天空の楽園】尾瀬で思い出したヒトの絶対感覚


遅い春が訪れた尾瀬ヶ原には水芭蕉が咲き乱れていた。


晴天のもと耳をすませば、鳥はさえずり、虫たちがそれに応え、木道を歩いている自分もその連鎖の中を循環(まわ)っている気がして、とても穏やかな気持ちになる。
湿原というのは、景色は単調だが生物の宝庫なので、その多様な生態系が間近に感じられ、視覚だけでなく五感を駆使してヒトの「絶対感覚」を刺激する。


【天空の楽園】のキャッチコピーに惹かれて、いつものごとく出たとこ勝負で一泊二日の予定で尾瀬トレッキングに向かう。麓の駐車場に車を停めると、携帯の電波はすでに圏外を示している。

携帯がないと死んじゃうと言うヒトは聞いたことがあるが、実際に死んだ話は今の所聞いたことがないので、少しでも荷物を軽くしようと、携帯やタブレットの類のモバイル機器をすべて車に放置する。

下着でもアクセサリーでも普段身に着けているものを外すと、何やら自分がとても無防備になった気がして最初は落ち着かないものだ。
だが、歩き始めるとそれはすぐに杞憂に終わる。姿は見えないが鳥や虫やその他の生物たちが自分に語りかける。

何のことはない。自分で勝手に作りだした殻なんか自然の力の前には何の意味もない。


トレッキングというのは、長く続けていると、早ければ10日を超えたあたりで概ね身体が順応し、歩くこと自体は殆ど苦ではなくなる。その一方で景色というのは、どれだけ綺麗だったとしてもその感動も最初だけで、普通はその単調さゆえに見飽きてしまう。

また、日常とかけ離れた大自然の中に長く身を置いていると、日常と非日常が逆転し、都会の片隅で、表向きは何不自由なく、ただストレスだけを抱えながら働いていた生活が、思い出す事は出来るが、吐き気を催すようなどこか現実味のない非日常になることがある。

そして、その大自然が完全に日常の一部になってしまうと、今度は、辛く、過酷で、そこから逃れたいと思っていた自然に対して反発する気持ちが消え、ごく普通に、淡々と自然と向き合うことができるようになっていくのだ。


10年近く前、5カ月ほどかけてチベットを端から端まで歩きまわった時、目指す場所が特に奥地にある場合は、現地の人間も殆ど通らない山越えのショートカットの道を好んでとることがあった。

人間が住む場所から歩いて2日かけてそこに行き、また別の人間の住む場所に辿り着くのに同じくらいの日数を必要とするような場所にいる時、多くの場合は、地球が創り出したまさに生のままの自然が目の前に広がっている。

携帯の電波も入らず、圧倒的な自然を前にしながら、時々私がそこに存在するということを自分以外世界中の誰も知らないというような状況に陥ると人間の感覚は通常の何倍にも研ぎ澄まされる。

そしてそれは、ある種の「危機感」のようなものだ。

自然が人間にとって癒しになるのは、遠くから離れて見ている時だけだ。長期間その中に入り込んでみると、自然は正体をさらけ出し、あらゆる手段で人間を飲み込もうとするので、快適とかリラックスなどとは程遠いところにあるのがわかる。


以前の私は、そのように自然環境の中に身を置き、五感を研ぎ澄まして、われわれ人間が知らぬ間に失ってしまった、自然環境の中に存在する「絶対感覚」のようなものを取り戻すことに夢中になっていた。そしてそれは、現在のように日本で忙しく働いていると確実に日々失われていく。

これは私見だが、その「絶対感覚」を束の間でも取り戻すための、現実的で最も身近で効果的な方法は「情報をシャットアウト」することだと思う。つまり、今の日本でも、田舎の静かな環境に身を置き、外部からの情報を完全に遮断すれば、2日も経たないうちにどこか精神的な変化を感じるはずだ。

ヒトである以上、その「絶対感覚」を完全に失ってしまうことはない。それでも、虫を見ると何でも「気持ちが悪い」というような子供や、アリの大群を見て「見てはいけないものを見てしまった」ような感覚に捉われる気持ちというのは、人間が自然から離れている証拠ではないだろうか。


一泊二日の「尾瀬散歩」を終えて市街地に戻ると、私は再び情報の渦の中にいた。そしてその時、若干の吐き気をもよおしつつ、また自分の中の「絶対感覚」が何かで覆われていくのを肌で感じていた。

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