2017年11月8日

わからないままに受け入れる

昨年LINEアプリを始めてからというもの、昔近所の公園のトイレに書かれていた、くだらない落書きみたいな短い文章を、深く考えずにタイムラインにポンポン放り込む癖がついていた。

40歳になったのを機に始めた、1回に3000文字以上も書いていたメルマガを放置し、日々グループLINEに流れてくるブツ切れのフレーズに、ヒトによって何通りもの解釈ができる、可愛いらしい絵柄のスタンプを直感で返して、バーチャルな世界でヒトと繋がる。

そんないっぱしの現代人のような、生産性は皆無だけれどなぜか忙しいという生活を送っていると、自然と本も読まなくなり、たまにしか目にすることのない、写真もイラストも入っておらず、長くて難解な言葉が多用される文章は、どこか研究論文のようにも見えてくる。

そうして、気付けば長い文章が書けなくなっていた。


現代のネット社会はとても「便利」だ。そこに疑いをはさむ余地はない。

けれども、記事を読んでいるそばから、わからない単語を別のタブでGoogle検索し、ただ表面をなぞっただけで、実践もしていないのにどこか知ったような気になってしまう薄っぺらい知識というのは、このブログでは何度も書いているけれど、本当に重要な物事の是非を決める時には何の役にも立たない。

実際、世の中にはすぐに答えが出ないものもある。時には是であり時に非でもあり更には是非を超越したものもある。それはそれぞれの立場によって変わる時もあるし、おそらく死ぬまで答えが分からないというものもあるだろう。

そんな時はそれをわからないままに受け入れる。

自分にとって確信を深められるような事も、すぐには飛びつかず、わからない部分をまずは留保する。
更には誤りやウソでさえも切り捨てるのではなく、それらも含めて人間の生み出した豊かさとしてとらえようとする。

そのためには、精神的な余裕とそれを受け入れる勇気が必要だけれど、私はその先に今の自分にとってもっとも居心地の良い、柔らかな光をみる。

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