2014年9月8日

自由を選ぶ


【断捨離】という言葉がある。 

何年か前に流行語にもなっていたようなので詳細は省くが、改めてググってみると、

“人生や日常生活に不要なモノを断ち、またそれらを捨てることで、モノへの執着から解放され、身軽で快適な人生を手に入れようという考え方”

とある。また、狭義にはその片付け方ともされている。

断捨離の肝の部分は《捨》つまり要らないモノを捨てることだ。
要不要の選別ができれば、自ずと自分にとっての重要度(使用頻度)も判別している。つまりは《断》を行い、《捨》を済ませれば、意識は自然と《離》に向かっていくのである。


自分にとって本当に必要なもの

 

私にとっては、自分の頭の中にあるアイデアを表現する時にも、無駄を省いていくというプロセスが不可欠だ。
例えば、このブログ記事を書く時も、最初はマインドマップのように書き出し、それらを繋ぎ合わせた上で、そこから不要な部分を削っていくというやり方をとる。

世の中には、ドンと一発勝負で驚くほどわかり易い文章が書ける人もいるようだが、私の場合はその《省く》過程の中で、よりわかり易く、明快で、かつ見た目にも整えていくという不器用なやり方しか今の所できていない。


また私は、仕事以外でどこかに出掛ける時は手ぶらで出ることが多い。なぜなら身一つの方がフットワークは軽いし、何だか気楽に生きている気分になれるからだ。そしてそれが、断捨離の《離》である。

結局、『あれを持っていた方が良い』とか『これはあるに越したことはない』と、考え始めると際限はないが、それらは《執着》に繋がる。
物が増えればそれに対する《執着》が芽生える。《執着》が芽生えれば、それを守るために自分を縛ることになる。つまりは物が増えるのに反比例して、自分の《自由》を切り売りしているのである。


 

執着からの解放


では、なぜ世の中には《執着》する人とそうでない人の差があるのだろうか。
それは、先ほど述べた《自由》と関係があるのではないかと私は思っている。言い換えれば、「自由でいたい」という欲求は、誰もが同じように持っているわけではないということだ。

そもそも個人の状態としての自由(=Freedom)というのは、常に心の中にある程度のあそび(余裕、余白と同じ)を持つ人にしか理解できない。つまりは自分の事でいっぱいいっぱいになっている人にとっては、自分が《自由》でいるという状態が落ち着かない。更に言うと《自由》は、明確な生きる方向性のある者の中にしか存在しない。

また、一見して、そのあそびが無駄な部分なのではないかと思ってしまう者とそうでない者の違いもそこにある。
誤解を恐れずに言えば、生きる方向性を持たない者にとっての自由な時間とは、無意味に持て余してしまうだけで何の価値も無い。それどころか、長時間自由に身を置くと、それがむしろ重荷でしかなくなり、しまいには《自由》から逃げ出してしまうことになるのである。

反対に、《執着》を持つことは、その存在に束縛されることだ。「それがないと困る」という条件付けを積み重ねることによって、その時々の選択の幅が狭くなれば、いちいち自分の頭で考える必要も無いので、ある意味ラクではある。その反面、当然視野は狭くなり、大局的な考え方はできなくなる。

結局のところ、自分の考え方や生きる方向性を持たない者には、変化は無いが進歩もない。要するに、安定はあるが大成もしないと言えるのかもしれない。


そしてもちろん、自由を選ぶかどうかは個人が選択することであり、そこに優劣はない。
ただ、もし後生大事に自分の社会的立場を守ろうと納得のできない生き方をして、後になって後悔するくらいなら、本当の自分を隠さず、敢えてリスクのある生き方を選ぶという考え方もあっても良いのではないだろうかと思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿

あなたのひと言が励みになります。