2015年2月16日

誰もが苦手でやりたがらないところにチャンスがある

先週は、社労士の先輩の集まる勉強会の末席にオブザーバーとして加わらせてもらった。まずはそのご縁に深く感謝したい。
そして、大きな声では言えないが、私がこういった《学び》の場に自ら進んで参加するというのは、雇われ時代には到底考えられなかったことだ。

以前の私は、上から指示された外部研修もことごとく『実務で役に立たない』という勝手な理由で切り捨て、社内研修ですらシカトを決め込み、それが例えば人事考課の判断基準になると言われても、その考えを頑なに変えようとはしない。

そのように自分が納得したこと以外はやらないのが自分の信念であると錯覚するのは勝手だし、一個人としてはむしろ好感すらおぼえるが、会社の指揮命令下に入っている一社員としての立場でそのようなスタンスをとるのは、「勘違いフリーランサー」であり、労務管理上も単に協調性のない「問題社員」だろう。


退屈なインプット



そもそも地道に努力を続けるという行為はとても退屈なものだし、それは誰にとっても基本的には変わらない。だが、何かを成し遂げるための道のりには、必ずそういった退屈な期間が含まれているのは確かだ。

とは言いながらも、今でこそ本当の知識と言うのはインプット(取り込む)とアウトプット(それを使って実践する)を組み合わせて身についていくことがわかっているが、私自身も先述の様に起業するまでは、その「退屈な」インプットの部分をないがしろにしてきた。

実際、私には資格試験に至るまでにこんつめて勉強に取り組んだという記憶が殆ど無い。中でも一番酷かった高校生の時などは、家でも学校でも机に向かって勉強するということを一切放棄していた。

実践するアウトプット


ただ、そんな救いがたい高校生の頃にも唯一好きだった科目がある。「工芸」という選択科目で週に2コマ程度しかないものだったが、担当の先生も「吉田銀次」という名前とは裏腹にとてもおっとりしていて話しやすく、私の作品を見てよく褒めてくれた記憶がある。

『中学の時、技術では5しか取ったことがないんだよね。』

と、当時の私は胸を張っていた。おそらく工芸の良かったところは、ある程度手を動かせばその場で完結する、つまりアウトプットの比率が高かったからだろう。そしてそれは、今の自分の趣味であるモノづくりにも通じている。

アウトプットという意味では、このブログもその一部だ。

全体に一貫しているのは、私の頭の中にある、人とは少しズレた独特の発想というかある種の諦観のようなモノ、または捉えどころのない、自分でも何を考えているのか分からない不可解な部分を言語化することだが、それが自分にとって更なる発見に繋がる時もあるし、同時に曖昧模糊としていた知識が、アウトプットされることによってより明確な形を帯びてくる。

まずは苦手なことから始める


そもそも私は昔から手先は器用だったが、その一方で不器用な生き方しかできない。

ヒトは往々にして不正確なもの、雑然としたものを嫌うが、変化というのはそれらを伴ってやってくるが、特に仕事のキャリア上で生じる何かしらの閉塞感というのは、あまりに深堀に集中し過ぎて視野が狭くなったり、自信があるがために変化を受け入れることが疎ましくなったりという、そんな時に生じてくる。だからそこで改めてインプットを意識する。

先日の勉強会で一緒になった社労士の先輩は、『とりあえず苦手な事から始める』と言っていたが、特に私のように一度に一つのことしかできない人間も、限られた時間を有効に使いたければ、選択に迷ったらより苦手でよりわからない方へと進むべきだろう。

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