2014年12月12日

生感覚を刺激する聖地巡礼の話



無宗教を自覚する割合が多いと言われる日本人だが、そう言った信仰心と「聖地」や「パワースポット」などと呼ばれる場所に対する興味というのは、どうやら別腹のようだ。かく言う私も、以前は「ミステリアスな何か」を求めて、国の内外問わずそういった場所に魅せられていた時期があった。


「時期があった」と過去形にしてしまったが、私の《聖地巡礼》遍歴の中で唯一無二の記憶として残っているのは、中国のチベット自治区にある「カイラス山」(以下カイラス)である。

カイラスは、チベット自治区の西端に位置する海抜6656Mの独立峰であり、公式には人類未登頂とされる。また仏教(特にチベット仏教)、ボン教、ヒンドゥー教、ジャイナ教における最高の聖地とされ、その理由は様々であるが、例えばヒンドゥー教ではカイラスをシヴァ神のリンガ(男根)として崇拝している。(Wikipediaより)

私がカイラスの存在を知ったのは、アジアを旅していた1990年代の後半だ。カイラスはバックパッカーの間では当時から既にその名を知られており、周辺地域を含めた西チベットはアジア最大の秘境とも呼ばれていた。
しかしながら、カイラス周辺は海抜4000M以上の高原地帯であり、また中印の国境紛争地帯でもあるため、アクセスが非常に悪く実際に訪れた旅行者には中々出会えなかった。そして、そんな旅先でカイラスの話が始まると、最後はいつも同じところに着地して幕を閉じる。

『そんなヒトも住まないような海抜4000Mの砂漠に、天に向かって突き出す聖地が「男根」っていったいどうなのよ。』

 カイラス巡礼

 

結局、私が実際にカイラスの麓に辿り着いたのは、それから何年も経った2006年の10月頃だ。
因みにカイラス巡礼とは言ってもカイラスには登らず、麓の村タルチェンを起点に全長52KMの山の周りをゆっくり歩いて3泊4日、通常は2泊3日かけて歩く。また、ある程度の健脚で慣れてくれば1泊2日、ローカルの人間は1日でまわる。

私の場合は、最初から1泊2日の予定でスタートし、初日は山の裏側が拝めるゴンパ(宿坊)に1泊、翌日も『朝は寒いので』巡礼者の中で一番遅くにゴンパを出る。
そんな私の「崖っぷち体験」はその2日目の行程で起きた。発端は、私が道を間違えて1周中で一番の難所と言われる「ドルマラ」峠を通らず、代わりに「カンドサンラム」と呼ばれる裏ルート、巡礼を13周終えた人間だけが通ることができる《奥之院》のような峠(道)の麓に辿り着いたところから始まる。
時刻は陽も西に傾き始めた14時頃であった。

引き返す勇気

 

「カンドサンラム」に着くと、斜面の殆どが凍っており、素人目にも登るのが容易でないのは明白で、さすがに道を間違えたようだと気付く。しかし、その時間にそこから引き返すことは、朝出発したゴンパに再び逆戻りすることを暗に意味しており、そう言った経験が圧倒的に不足していた当時の私には、その氷壁に「挑戦する勇気」は沸いても「引き返す勇気」が沸いてこなかった。

そうして私は、半信半疑なままクレバスを避けつつ、とにかくジグザグに登り始める。すると、穴の開いたVANSのスニーカーは、すぐにシャーベット状の雪が私の体温で溶けてビチョビチョになり、また外側からすぐに凍り始めるので、もはや氷の靴を履いているようだった。
更には、最上部に近付くほど下から見た以上に急斜面になっているので、途中からアーミーナイフをピッケル代わりに突き刺しながらよじ登っていく。


が、登り始めて2時間近くが経ち、ようやくトップまであと5Mというところまで来た時、不意にナイフが手元からすべり落ちた。
ガーバーのナイフは、微かな音を立てて絶壁を転げ落ち、斜面が緩やかに変わるあたりでようやく止まった。私が2時間もかけて登った絶壁を僅か数十秒で駆けおりたナイフが、時間も体力も僅かしか残していない私が最後に残していた気力をも奪い取ると、ただ呆然とするしかない。

おわった。

私は死を覚悟した。ナイフの次は私が力尽きて転落し、聖山カイラスに抱かれながら、万年雪の中に永遠に眠る。つまりは私が男根だったのだ。

と、そうしている間も北斜面の海抜5600米の世界はみるみる気温が低下していき、セミのように氷壁にへばりつく私も寒さで思考能力が麻痺していく。まるで月面のような大自然の中、私は圧倒的に孤独だった。

やるだけやってみよう。

そう思うまでにはさほど時間を必要としなかったように思う。そうして思い付いたアイデアは一つしかなく、私は躊躇なく地面に手刀を突き刺した。正直とんでもなく痛くて涙が出たが、何とかいけそうだと見切り発車をして、両手両足を交互に突き刺し少しずつよじ登るように身体を持ち上げていく。もちろん踏み外したら終わりだ。でも、そのままじっとしていても間違いなく死ぬだけだ。

生感覚を研ぎ澄ますと身体の感覚が鈍くなる


実際、その時はあまりにも無我夢中な状態だったので、今思い返しても非常に視野の狭い記憶しか残っていない。ただ、こう言った体験をすると人は自然と死を意識するし、生きていることに対する感覚が都市部の生活では体験できないレベルにまで高められる。また、時には明らかに危険な状態なのにそれを冷静に見つめている自分が居たりもする。
そして、悲しい事にもこう言った過程を経たのち、身体の感覚というのは鋭くなるのではなく鈍化する。生半可な刺激では実感が得られないようになってしまうのである。



言うまでも無く、私は今もここに存在している。つまり「カンドサンラム」で涙と鼻水でグチョグチョになりながらも何とか身体を持ち上げ続けた私は、九死に一生を得て生き延びることができたのだ。
それなのに、その様な体験をすると、私の場合「二度と行きたくない」という思いと「もう一度あの生感覚を味わいたい」という気持ちが同居する。

ただ一つだけ経験的に分かっていることは、このような「刺激慣れ」をしてしまい、ガチな体験を繰り返すことは、間違いなく死を身近に引き寄せることになり、それらの危険に対するアンテナも表裏一体に鈍化していくことだ。つまり、その刺激を追い求めていけばいつか致命的な場面に出くわし、一線を越えることになる。命あっての物種なのである。

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