2017年2月4日

想定外の出来事をありのままに受け止めるとヒトは自由になれる



旅行の予定を立てていたらふと書きたくなったので旅の話に絡めた雑感を書く。

いわゆる一般的な旅というのは、ツアーなどのように計画を立て、その計画に沿って動くものです。そういった旅において、旅がうまくいくかどうかは、なるべく多くのリスクを事前に予測し、対処できるようにしておくかに賭かっていると思います。

ただ、時にそれでも計画通りにいかないことってありますよね?

乗り継ぐべき飛行機の到着が遅れる。旅行中に急遽体調を崩す。
ただ、リスクを回避することに全力を尽くす方が居る一方でそういう思いがけない予想しえなかった「経験」こそが旅の魅力であり、少々のハプニングが起きるくらいが旅の楽しさであると考える方もいる。

実際私の周りに集まる「旅好き」には、そういったハプニングも含めて「想定内」として旅を楽しんでいる方が多いのですが、この違いは一体何なんだろうというのが今日の話のスタートです。


世界を旅していると先述のような「適度な」ハプニングだけで済まないことが多い時もあります。ほぼ計画通りでハプニングが少しというのではなく、起きる事の殆どがハプニングか「想定外」という状態です。

例えば船がいつ来るかわからないし乗ってもいつ着くかわからない。目の前に居る現地の人間の言っていることが嘘かホントかわからない。市場で買い物をしても、相手のいっている値段が相場かどうかわからない。

日本の列車のダイヤが異常なほどに正確なのは良く知られていることですが、日常起こる殆どのことが予定調和で「想定内」の世界に慣れていると、そういう場所を旅した時に怖くなったり不安でイライラしたりします。

そうした日常の中に身を置いた時、ヒトが思い至る先というのは、実は旅行者だけでなくそこに暮らすヒトたちも一緒です。そういった、言うなれば人間の作り上げた観念や仕組みが通じない環境に長く身を置くと、初めのうちはそれを何とかコントロールしようとして悪あがきしますが、いずれ途方に暮れ、やがて諦め、結果として先のことは考えないし、未来には期待しなくなる。

つまり、人間は誰しもある程度順応するように出来ているので、そういった状況に何度も遭遇していると、相変わらずその時はイライラするし、怖かったりもするけれど、そのことを長く引き擦らなくなります。

更には諦めてしまう、ゆるしてしまうことで、逆にゆとりが生まれ、冷静に対応できるようになり、その結果なぜかその状態を楽しめるようになる時すらあります。「想定外」との向き合い方が変わる瞬間です。


旅だけでなく、何かを計画・実行しようとする時、ヒトは「想定外」をできるだけ「想定内」に収めようとします。そして、そのコントロールされるべき「想定外」の主たる対象を仮に「自然」という言葉で表現します。

「自然」というと海や山、草木や虫・動物などがイメージされるかもしれませんが、実は私たち人間も「身体」という「自然」をかかえています。「自然」には流動性があり、機械と違って同じ様に見える事象であっても全く同じではなく、繰り返しがない。
我々も一人一人に年齢・性別・思考など少なからず異なる部分がありますし、例えばお腹が空く時間も眠くなる時間もそれぞれ全然違います。

現実社会の中でそういった全てのことをコントロールし「想定内」に収めることは不可能です。必然、どれだけリスク管理をしてもすべてのリスクが避けられるわけではありません。

また、「想定内」にこだわりすぎると、その「想定内」の枠組みを、全てのことにあてはめ、その枠の中で世界を見ようとするという弊害が生まれます。そして、それに合わないものは無理矢理想定内に押し込めようとしたり、見方に合わないものは見て見ぬふりをするということさえ起こりうる。

結果、それを続けていると当然見えないものが増え、そのうち見えていないことにすら気付かなくなる。そういう「ゆでガエル」的なことは、私たちの身のまわりでたくさん起こっています。


結局、ヒトは見たいものしか見ていません。そのヒトの世界観を突き崩そうとする「想定外」は、最初からスルーされたり、時に排除の対象になります。
それに対し物事を排除したりせず「ありのままを観察する」ために大切なのは、「想定外」を「想定外」のままに受けいれて対応する力です。

何か変化があっても『まあ、なんとかなるでしょ。』と思えるようなある種の自分と他者への信頼感。それは、心で考えることではなく、どちらかと言えば身体からもたらされる「柔軟な」知見だと私は思っています。

そして、その「柔軟さ」を身に付けると、ヒトは私達の誰もが持つ「身体」という自然の「想定外」つまりガンや大きな事故などのようなことに遭遇した時に、一旦は落胆するとしてもそれを受け入れ、短い時間でニュートラルな落ち着いた状態に戻る事が出来るようになると思います。

「ありのままに観る」ことはスッキリと癒されるような感覚とは限りません。イライラするときはするし腹も立つ。ただ「まあそう言う時もある」と感じられるような在り方です。
逆に言えば「スッキリした」と思っていたのが、実際は「想定外」を無理やり「想定内」に収めただけでしかないこともある。

要するに、生きていくうえではすべての事をリスク回避したり、無理やりスッキリしなくても構わないのではないか。


複雑で先の読めない「想定外」の世界を無理に「想定内」の枠に収めず、そのままの状態で受けとめる。そんな飄々とした立ち回りをおぼえることでヒトはまた一つ依存から脱却し、自由になれるのではないでしょうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿

あなたのひと言が励みになります。