2015年1月15日

体験することによって偏見を助長しないための論理



年は1月12日が成人の日だった。私自身の成人式はもう20年近く前になるが、当時は先の事など何にも考えず、学生と言う身分で親の脛をかじりながら、今よりも更に貪欲に「その時その時を楽しく生きる」ことを選択していたように思う。

物事をあまり突き詰めて考えず、理屈をこねくり回す事もなかった(というよりそれだけの頭も無かったが)ので、本人としては楽しかった記憶しかないが、傍から見れば非常識で欲にまみれていたのかもしれない。

そのようなタブー感覚がないラテン的な生き方をしていると、男も女も欲望が剥き出しで、日本のようにルールが先に立つ国では非常識な部分が目立ってしまう。だが、私自身はそう言ったヒトを見ていると何だか楽しくなるし、実際そう言ったヒトの方がイキイキしてみえる時もある。

私には子供がいないが、そう言った意味でせめて幼い時くらいは、周りのことなど気遣いをせずに、心身共に素っ裸で生きていきたいものだと思う。(現実はそうも言ってられないのだけれど)


旅との出会い


特に男性によく見られることだが、ヒトが成長していく過程における少年時代から青年時代にかけての時期に、色々なモノに出会い、刺激を受け、それらのうちの一つから人生の道を決めるほどの影響を受けることは少なくない。そして、その時期に一つの事にのめりこむと、そこから抜け出せないほど夢中になってしまうことがある。私にとってはそれが「ひとり旅」だった。

そんな私が初めて長い「ひとり旅」を経験したのが20歳の頃だ。成人式のことは全く憶えていないが、最初にその自由さを味わった時の感動は今でも忘れられない。そして、その時の感動をまだ若かった私はこのように表現していた。

『世の中にはこんなに面白い遊びがあったんだ』

視野を広げ世界を広げる


それから20年近くを経た今では、旅行というのは一人より二人の方が「楽しい」事もわかったし、何ヶ月もかけて秘境を目指すようなスタイルの旅に出掛けるつもりもない。ただ、私が「ひとり旅」好きであったことは、現在の私が個人事業者であることに唯一その痕跡を残している。

私は学生時代にアジア、中東、ヨーロッパ、アフリカ、中南米と各文化圏をひと通り訪れ、その成果にも概ね満足し、旅と私との間にある種の結論を出したつもりになって社会人になった。

働き始めると、決して給料は良くはなかったが、当然毎月安定した収入が入る。そのお金で夜な夜な友人と街に繰り出してはナンパばかりしていた訳だが、それはそれで面白おかしく生きていたと思う。

その一方で、私の心の中にあった卒業当初の旅に対する満足は、時が経つにつれて風化していく。代わり映えしない日常がつまらなかったこともあるだろう。だが、最大の不満はそれではなく、自分が満足したつもりになっていたその成果についてだ。

ヒトはヒトとの関わりの中でしか生きられない


社会に出て働き、自分の未熟さを体感してみて、私は周囲への気遣いということをようやく理解していく。
ヒトの人生というのは、例外なく他人の人生の断片から成り立っている。一人で生きているつもりでも、生まれた時から常に誰かと関わりながら生きている。私が遅ればせながらそれに気付いた時、そんなことすら分かっていなかった自分が世界で見てきたつもりになっていたのは、それこそほんの爪の先ほどに過ぎなかったのではないかと思えた。

結局、体験することが即ち見聞を広めるということには繋がらない。例えばたくさん旅をして体験が増えたとしても、それを既存の、日常的な文脈で位置付けている限り、その体験がどんな意味を持つのかは決して見えてこないし、むしろ旅をすればするほど、主観的な思い込みや、独りよがりな偏見を増やして、かえって世界観を狭くしてしまうようなこともないわけではないからだ。

そうして、より大局的な視点を持って振り返ると、楽しければそれでよしとして旅をしていた自分はある意味ピエロだったのではないか。更に言ってしまえば、自分の中に残っている記憶はもはや虚構に過ぎないのではないか。そんな自問自答の末に私はもう一度世界に飛び出すことになった。
10年前の話である。

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