2015年1月31日

ヒトは多様な価値観を受け入れすぎるとタブーがなくなる

イスラム国の人質事件関連のニュースに関連して、今日もネット上で様々な意見が飛び交っている。

そもそも、いつの間にか「イスラム国」なるものが出現しているが、元々はシリアとイラクである。だがイラクはともかく、シリアは日本人にとっては馴染みも薄く、ここだけの話2011年に内戦が始まるまで聞いたことも無かったという方もいるだろう。

その一方でシリアは、バックパッカーの間では比較的メジャーな国だったと言える。
観光資源が豊富な上、レバノン料理を起源とする食事の数々はクセが無く、誰もが美味しいと思えるようなものだ。また物価も比較的安いので、トルコやヨルダン、エジプトと併せて実際に訪れたことがある日本人もかなりの数にのぼるはずだ。

アレッポの街


トルコ南東部に位置する、ガゼアンテップと言うトガった名前の街から国境のキリスを越えてシリアに入ると、最初の大きな都市がニュースでよく目にするアレッポだ。現在は見る影もないが、以前はイスラム色を色濃く残し、歴史を感じさせる趣深い都市であった。


礼拝の金曜日


冬のシリアはかなり寒い。
私が訪れた12月の初旬のその日も、朝は石造りが底冷えしたので昼近くになってようやく街ブラに出掛けた。
外に出ると、どんよりした空模様だったからか、はたまた誰かの陰謀なのか、周囲には人影が殆どない。

そうか今日は金曜だ。

そう思い至ったのは商店が軒並み休みだったからだ。イスラムの国では、金曜日を合同礼拝の日としているのでオフィスなども休みになる。私たちの感覚で言えば日曜日がそれにあたる。

そんな人気のない路地をどれくらい歩いただろうか。中心部に位置する時計台近くまで来た時、何やら大きなモノが吊るされているのが見えた。
更に近付き、周囲をハゲタカのような鳥が飛び回っているのが見て、私はようやくそのモノが何であるかを肉眼で確認する。その瞬間『おいおい』と、私は口に出さずにいられなかった。

公開処刑された死体であった。

既に処刑から時間が経っていたせいか、周囲は人影も疎らで足を止める人も殆どなかった。
何にしても死体を見るのは気持ちの良いものではないが、そういう時に限って引き込まれるように見入ってしまうことはよくある。その時も、私とその塊以外のすべてが消滅していくような錯覚があり、私は、ただそこに立ち尽くしていた。

異文化を受け入れる


夜になり、安宿に戻ってその話をすると、オーナーは『彼は〇○歳で、何度も盗みを働いたので死刑になり、云々』といった内容の事を淡々と話してくれたが、部屋では、隣室の白人旅行者が、夜更けまで唾を飛ばし、それがいかに非道であるかを力説する。

ヒトは自分の理解の範囲を越える事象に遭遇するとそれを軽蔑する傾向がある。だが、その時の私はこう考えていた。

私は様々な国で、現地の人々の数多の親切心に甘えて旅をしてきた。その上で、世界中で一番親切だったのはどこかと言われれば、迷わずイスラムの国々だと答える。更に言うと、中でも格別に治安が悪いと思われている、非常に信仰深いイスラムの国 ―例えばシリアやイエメン、パキスタンやアフガニスタンなどだ― に於いてそれは特に顕著に表れる。

彼らの心は本当にピュアだ。だからこそ信仰に関しても真に純粋な気持ちを持っている。結局、それは表裏一体なのだろう。


言うまでも無く、現在の日本におけるイスラム教徒に関する世間的なイメージは相当悪い。だが今の私は、イスラム国の、真っ黒でどこかおどろおどろしい民族衣装の男達がマシンガンを抱えているその向こう側に、どうしてもピュアな素顔を重ねてしまっている。

目には目を

イスラムの考え方というのは、是非はともかく根っこの部分はシンプルだ。政治的な背景や大局的な正義感を除いて耳を傾けてみると、実はタブー感覚の薄い私などは「なるほどね」と納得してしまうことが意外と多かったりもする。

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