2014年10月10日

自分にしか見えないゲート

中東にイスラエルと言う「国」がある。
かの地を国と呼ぶか否かという議論は他のスペシャリストにゆずるとして、私が知っていることは、かの国の人達が、東京23区に満たないほどの人口にも関わらず、良くも悪くも世界中のあちこちで暴れまわっているということだ。

通称【ラエリー】である。

私が出会った最初のラエリーは、日本の街角でシルバーアクセやその他の怪しいモノを売る人達だ。その後、日本での「怪しい人達」は、いつしかイラン人やブラジル人になり、ラエリーは、アジアや中南米など海外(旅行先)でのイカれた遊び仲間へと変わっていく。

そのように、長年に渡ってラエリーに対する興味を持ち続けた結果、遂に私がその本拠地に足を踏み入れることになったのは、2000年もだいぶ過ぎてからの話だ。

ひとつだけの違和感


実際に私がイスラエルを訪れた印象は、想像していた以上に「普通」であった。

そんな中、私は2週間ほど観光用の地図には載っていないような小さな田舎町の友人宅に居候していた。
北西部の都市ハデラから少し内陸に入った場所にあるその町には、こじんまりしたショッピングセンターがある以外、日用品を始めとする雑貨を売る商店もなければ、休日の午後のひと時を過ごすようなカフェも見当たらなかった。

そうなると、必然的に昼間は人の気配が殆どなく、また現在の日本の様に暇を持て余した年寄りがどこかにより集まっている様子もない。
だが、そんな何の特徴もない「小さな世界」にも一つだけ他と違うところがあった。
それは、町の入口に《ゲート》があり、その町がいつでも封鎖できるようになっていたことだ。


私が「いつでも封鎖できる」と言ったのには理由がある。なぜならそのゲートは、常に全開になっていて、特に検問している訳でもなく、住民たちも全く気に留めていなかったからだ。
そして、ある日それを友人に尋ねると、何のことか分からないという顔をした後ようやく口から出たのは、

『あぁ、あれね。一回も閉まってるのを見たことないよ。』

と言うだけのことなのであった。要するに、そこに《違和感》を感じているのは私だけだったのである。

持っている知識にとらわれる


もともと、全ての物事を100%ありのままに捉え、認識するというのは難しい。
私自身も、常に物事を客観的に観察しようと心掛けてはいるものの、あとで振り返ると、むしろ心掛けた分だけ余計にバイアスがかかって(偏見が入って)いたなんてこともありがちだ。
先述の話で言えば、私は「ゲート」が「封鎖するものだ」という観念に捉われ過ぎていて、それ以外の文脈では理解できなかったが、住人にしてみると、現状では誰も全く気に留めないただの人工物なのである。

そして、この話を私なりに整理すると、以下の仮説に思い至る。

例えば、子供の頃は風景を見て美しいと感じることはないが、大人になると自然の景色を見て写真を撮ったり、その造形に深く見入ったりする。
その一方で、アマゾン奥地のジャングルに住む原住民にとっては、その極彩色な手つかずの自然は「美しい」ものだとは認識していないが、私たちのような世界で生活する者にとっては、まるで楽園のような景色として目に映る。

それらは極端な例だとしても、結局、人は知識や経験を得るごとに客観性が増していくと勘違いしてしまうことには少し誤解があるのではないか。
つまり、「知る」ことによって、ヒトはあらゆる物事をその持てる範囲の知識のカテゴリーに分けてしまい、無意識のうちにフィルターを透してしまうということが往々にして起こりがちだということなのだ。

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